下社春宮周辺|一口メモ

諏訪大社下社春宮

下社春宮

諏訪大社下社
全国有数の末社を持つ諏訪大社には、下社と上社があります。上社は、遠く出雲の国譲りで大和朝廷の支配を望まず、国を捨てたタテミナカタと出雲族は浪々の果てに諏訪へ落ち着いて、上社のご祭神になりました。
大和朝廷は、諏訪の出雲族を追跡して信濃国造の「金刺氏」を下社に定着させて、今に見るような諏訪大社が出来たのです。

下社春宮
下社には春宮と秋宮があります。季節ごとに御霊代が遷座する日本でも珍しい神事がおこなわれます。

慈雲寺参道

矢除け石

矢除け石
武田信玄が川中島の合戦に行く途中、石の上に立つ慈雲寺の僧に向かって弓の名手に矢を射らせました。不思議なことに僧には当たらず、この石に矢除けの法力があるということで、信玄は札を授かり、川中島へ向かったという伝説があります。

竜の口
慈雲寺に登る大門口にある水場。設置されたのは文政の頃、旧横川村の石工、山田金右エ門の作とされています。

水月園・慈雲寺

水月園

水月園(すいげつえん)
慈雲寺所有の寺林が寄進されて今は桜の名所になりました。桜樹を取り囲むように地元の俳句愛好者の句碑が建ててあり、中に俳聖芭蕉や弟子曽良の句碑が品格を高めてくれます。付近は名峰富士山を遥かに望み、眼下に諏訪湖と湖周の町並みが散りばめられ、夜景は一見に値する佳景です。

慈雲寺(じうんじ)
春宮の北東にある慈雲寺は、春宮の鎮護を目的に建てられた鬼門寺です。寺は下社の大祝金刺満貞が鎌倉の高僧一山一寧を諏訪に招請して正安二年(1300年)に開山されました。

下馬橋・大門通り周辺

下馬橋(げばばし)

下馬橋(げばばし)
春宮の大門に太鼓の形をした橋があります。正しくは「下馬橋」と言い、昔は神輿の貴人も馬上の貴人もここで地上に降り立ち、身を清めて神社を参拝するように決められていたといいます。今は遷座祭の神幸だけの通路です。

大門通り(だいもんどおり)
春宮から南に伸びる道は春宮の大門です。八丁(約800m)先に中山道に出合い、以前は大門通りの両側に椹(さわら)の大木が荘厳な雰囲気を漂わせる参道でしたが、台風で殆どが倒壊して、今では当時を偲ぶ面影はどこにもありません。

富士見橋・砥川

富士見橋

◎富士見橋(ふじみばし)
下諏訪は何処からでも富士山が眺められます。表富士でなく裏富士です。表は日本を象徴する優美な山体なのに、裏は峨々たる絶壁で鳥をも寄せ付けぬ人跡未踏の山容なのに霞む遠望は柔和な山容に見えます。

◎砥川(とがわ)
砥川は下諏訪の母なる川です。上流八島高原の山城は下社の御社ご用材の調達区域であり、流水はpH値7.0に近い弱アルカリ性で、御柱の年輪も上社の用材より広く、故に太い。

万治の石仏

万治の石仏

 万治の石仏は春宮の西にあり、JR東日本の信州ディスティネーションキャンペーンでも紹介され、参拝する観先客が飛躍的に増加しています。
 石仏は以前「烏帽子石」と呼ぶ神官の帽子に似た石でしたが、弟子達が万治三年(一六六〇年)に後方の高い部分を削ぎ落として阿弥陀如来の身体を刻み、別の石で佛頭を乗せた供養墓にしました。石仏は阿弥陀如来の袈裟を纏い、胸に大日如来が線刻してあります。

諏訪大社御柱祭

大正15年御柱祭(現しんきん付近)

奈良時代、天皇は都に近い諸寺院の専横にわざわいされて天皇親政を執行出来ず、日夜辛酸を舐める日々が多かった。それを解決するために、平城京を捨てて新都建設に着手しました。それには膨大な食糧と胆力と財力がなければなりません。幸い食糧と胆力は得られましたが、財力が得られず困惑していました。その解決策として「蝦夷征伐」を敢行しましたが勝利に恵まれず、連戦連敗でした。