諏訪大社御柱祭

奈良時代、天皇は都に近い諸寺院の専横にわざわいされて天皇親政を執行出来ず、日夜辛酸を舐める日々が多かった。それを解決するために、平城京を捨てて新都建設に着手しました。それには膨大な食糧と胆力と財力がなければなりません。幸い食糧と胆力は得られましたが、財力が得られず困惑していました。その解決策として「蝦夷征伐」を敢行しましたが勝利に恵まれず、連戦連敗でした。

そこで諏訪神社に戦勝祈願した所、忽ち勝利して念願が適えられたと言います。ときの桓武天皇はいたく感涙し、御褒美に「式年造営大祭」を行うように指示されました。それが延暦二十年(八〇一年)巳年です。しかし造営大祭は、延暦二十三年(八〇四年申年)から行うことを付帯されたので三年後から始めることになったと言います。

付帯の内容は、寅と申がものごとの表始めと裏始めの規矩を現している大和朝廷の規矩に即して指示したことであり、別の見方をすれば表鬼門と裏鬼門に通じる規矩につながる「陰陽説」でもあります。
これは八ケ岳山麓地方にはみられない規矩で、「式年造営大祭」が今の「御柱祭」です。

大正15年御柱祭(現しんきん付近)
大正15年御柱祭のお騎馬
大正15年御柱祭 春宮前の長持ち(下の原)