下諏訪の甲州道中|一口メモ

甲州道中と下諏訪

江戸時代の面影が残る政屋

甲州道中は、日本橋から下諏訪を結ぶ五十三里十一町の街道で五街道のひとつに数えられます。初めは甲州海道といいましたが、海辺を通る道ではないからと、正徳六年(1716)甲州道中と改称されました。

甲州道中は徳川幕府が、豊臣恩顧の外様大名らが江戸へ攻めてきた時の逃げ道として作られました。

中山道合流の碑〜承知川橋

承知川橋

◎一里塚(五十三里)
六方石でできた一里塚。六方石は、打てばかんかんと金属音を発するので俗称かんかん石と言われ、形状からは棒石とも言われます。一里塚の碑には「甲州道中一里塚 江戸より五十三里、昭和三十七年建立」とあります。

◎承知川橋
武田信玄が合戦に赴く途中、諏訪明神に戦勝祈願をし、勝ったら社殿を建て替え、三重塔を建立すると約束しました。

藤の木社〜石投場

明治天皇駐れん祉の碑

◎石投場
諏訪湖を眼下にした展望に優れた場所。昔は石を投げれば諏訪湖に届くような所だったことから名づけられました。明治十三年、明治天皇ご巡幸の折には、ここから漁夫たちの投網の様子をご覧になったといいます。地元高木地区では、その記念に「明治天皇駐輦址」と刻まれた大きな碑を建てました。

◎藤の木社
金刺氏の分家、高木氏の神社。永正五年、下社の金刺氏が上社との抗争に敗れ、滅びた後に金刺の支配下にあった地域は上社の支配になりました。

柿蔭山房〜津島神社

柿蔭山房(しいん さんぼう)

◎津島神社
尾張津島神社の分社で、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が主神として祀られています。旧高木村の鎮守として崇敬され、明治五年には村社に昇格。境内には島木赤彦・伊藤左千夫・斎藤茂吉の歌碑や岩本木外の句碑、大和作内制作のブロンズ像があります。

◎柿蔭山房(しいん さんぼう)
アララギ派の詩人、島木赤彦の自宅。歌を発表する時「柿の村人」と号したこともあり、自宅を柿蔭山房と名づけました。

政屋〜杉の木社

政屋(橋本屋)

◎政屋(橋本屋)
上諏訪宿と下諏訪宿の間に残る中の茶屋。江戸時代の面影がそのまま残っています。門は高島城の門を移築した物か、あるいは写しと言われ、医薬門という格式ある形式。旅人の安全を祈願し、門の上には南無阿弥陀仏の札と一緒に円鏡が揚げられています。

◎杉の木社
尾掛松と呼ばれる古木が、現在の杉の木社の傍らにそびえていました。この木はマツ、スギ、ヒムロなどに植え替えられ、神木として祭られてきました。近年まであった木はヒノキ科の柏槙(びゃくしん)で、樹齢約千年、目通り周囲3・2m。昭和五十六年、町の天然記念物に指定されました。