下諏訪の製糸業|一口メモ

下諏訪の製糸業

片倉製糸工場最盛期の下諏訪町。
まだ御田町の商店街は見えない。
(明治42〜3年頃撮影)

 明治六年六月に下の原の中村製糸が創業し、明治十一年には萩倉にも製糸業が始まりました。いずれも原料の繭が和田峠を越えてきたから、峠下の萩倉や下の原は諏訪の製糸業の草分けになったのです。
 明治政府の「殖産興業」に呼応して製糸業が始まったので、産業資本の充実を目的に製糸金融が始められました。明治十四年に第十四銀行、第十九銀行、佐久銀行が一斉に下諏訪宿の旅館で季節金融を行っています。しかし下諏訪は、経営者が旅館を営むため、差し迫った融通を望む声が少なく、明治二十四年には第十九銀行が岡谷に出張所を新設して拠点を移しました。

国用製糸と託児所

国用製糸全盛時の託児所(大正14年)

 下諏訪の生糸は「甲斐絹」の原料に優先して使われましたが、繭を渡して自宅の軒先で紡ぐ「座繰り」が盛んになりはじめました。しかし「座繰り」をする奥さんは、出産後、一定期間工場に来られないため製糸の生産高が減ってしまいます。そこで一計を案じた人がいました。

下諏訪駅

現在の下諏訪駅

 下諏訪駅は、平成17年11月25日に開通百周年を迎えました。中央線は明治37年12月に富士見駅まで開通しましたが、その先を敷設する資金がなくて延期になってしまいました。理由は日露戦争により国防予算が払底して民生用にも事欠く事態になったため。

現在の製糸業

松沢製糸場の工場内(自動機)

 諏訪で明治初期から始まった製糸業が今、下諏訪には「松沢製糸所」一社になってしまいました。しかし松沢製糸は操糸方法が完全に自動化され、今まで二百人の女工さんが働いた仕事をここでは7人で行っています。日産五十キロの生産を自動操糸機から生み出されます。今、日本では松沢製糸所の他に二社が操業しています。