下諏訪宿の構成

下諏訪には宿駅が三ケ所にあった。戦国時代甲越両軍が対峙した川中島戦の頃は東山田の神宮路に、豊臣秀吉が天下統一の頃は木落とし坂上の「町屋敷」に、そして徳川家康が征夷大将軍になった頃に五街道が整備されて、今の下諏訪宿が生まれた。

いずれの宿駅も隣宿との距離が長いために、殆どの旅人が下諏訪宿に止宿せねばならず、俚謡に唄われたように
「木曽の棧太田の渡し 和田の峠がなけりゃよい」
となり、下諏訪宿の中心は大変な賑わいを見せたと言われている。

また、下諏訪宿は中山道と甲州道中が合流するが、参勤交代の大名は下諏訪から甲州道中へ進入出来なかった。


三ヶ一 下諏訪宿を編成するとき友の町を加えて構成した。それを加宿という。加宿友の町に下諏訪宿の三分の一を負担させたからである。友の町の三分の一は下諏訪宿の運用に一括されて明治維新まで続いている。 したがって、下諏訪宿の範囲は国道の下諏訪駅の入口のもう少し先まであった。

加宿友之町
下諏訪宿は正しくは本宿と加宿友之町から構成されている。御柱グランドパークから西に広がる国道二十号線が加宿である。
しかし本宿は加宿を付属ものと見ることが多く事毎に紛争が絶えなかった。紛争を解決する為に高島藩へ訴えても本宿と加宿は所管が違い簡単に済まないことが多かった。

下諏訪宿